2016/04/16

岡崎城跡菅生川端石垣調査 現地説明会

160417__5803発見された石垣は 高さ5mx長さ400m=2,000m2で、約10億円の埋蔵金を見つけたことになるそうで(笑

寛永~正保元(1644)に築かれた菅生川端石垣。同一の石垣ラインが400m続くのは日本最長。また、石垣の途中3ヶ所の横矢桝形(*)は、約100mの間隔で設けられているが、これは鉄砲の殺傷能力(50~60m)を考慮したもの。
以上が三浦せんせのお話。

岡崎城の魅力が、一つ増えました。

(*) 旧来の横矢+櫓セットだったが、櫓の維持費が不要になる等の理由で、旧17C中期以降に多様された。

[写真] 対岸から撮影。右端の松の木から左端までが約300m。石垣の露出部分が高さ2m、河川敷の地表~水面までが約2mなので、5mの石垣が連なる壮観な姿はおおよそ想像できるだしょう。

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2016/02/27

諏訪原城 現地説明会

160304__4762調査区域が、従来の諏訪原城の西側(*)から、南側へ移動。2015年度は、重ね馬出のひとつである「ニの曲輪東馬出」でした。

■2015年度 調査結果
・深さ8mの薬研堀
・門跡とみられる礎石が出土
・鉄砲玉が多数出土

木々が打ち払われ、小さな馬出が相互に連携している姿が読み取れるようになりました。また、現場説明の前に、諏訪原城の概要解説も実施され、かなり濃い内容でした。

それ以上にビックリは、本格化した公園整備のようす。駐車場から二の丸中馬出方面への遊歩道が整備中でした。これまでの、うっそうと木々に囲まれた姿はほとんどありません。

[写真] 調査区域全域を西側から撮影。右側トレンチが薬研堀。左側が馬出の郭面で、曲輪入口部(立木の右側)に門の礎石が2ヶ出土。

(*) 2008年度2011年度2012年度

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2015/09/12

松下屋敷 現地説明会

150913_0893松下屋敷を囲む土塁の北西部分を狙って、トレンチ2本。
豪雨の影響で調査が遅れており、説明会時点では、土塁外側で、後世に堀を埋めた後を確認したにとどまるとのこと。(土塁の傾斜 45~50°)

# ヤブ蚊対策で長ズボンでいったけど、草刈りしてあって感心した。
# 説明会のあと、磯田せんせによるミニ講演。井伊直虎もさっそく絡めるのはサスガである。

[写真] トレンチの土色に注目。(手前)黄色が後世の埋め立て、(奥)黒色が土塁の土。
人影の後ろが、いつもお世話になっているかっ○寿司(=松下屋敷の中心部)

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2014/10/19

浜松城跡 発掘調査現地説明会(第12次調査第2期)

141019_7132参加者多数で大盛況!

今回確認された堀は、浜松城の正門となる鉄門(本丸虎口)のすぐ西側。堀尾期の石垣を確認した、本丸南土塁の南側になります。堀は東西方向に広がり、現在の地表面から約2mの深さ。ただ、本来の地表面は今より1m高かった(*1)ため、本来の深さは3mだったとのこと。幅は11m。堀の斜面は緩やかな印象。

特徴的なのは、地層から堀が丁寧に埋められていたことから、堀を埋めた場所を平場として活用しようとした意図が読み取れるということです。

なお、家康時期の堀であるということは、新聞報道のとおり、出土物と地層から推定したものでした。(*2)

本丸南土塁の上から、今回確認した堀を見下ろす。お城への入口前に、家康期の堀、堀尾期の石垣が出てきた。こりゃ、計画再考が必須?

(*1) 本丸南土塁に築かれた石垣の基底部より、現在の地表面は1m低くなっている。後世の作事で地面が削られたものと推測。

(*2) 出土品のうち本丸南土塁下から出土した「軒丸瓦(三巴紋)」が石垣山城と類似しており、豊臣系の瓦=堀尾氏が使用したと推測しています。

[写真] 人影ならOKですよね?(笑)
(説明:コンクリ塀が本丸南土塁。このなかに見える石垣が堀尾期のものと推定。一方、家康期の堀は赤ビニールテープで目印された部分。なお、堀の真ん中の四角いコンクリ片は、取り壊した駐輪場の基礎部分。)

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2014/10/02

[予告]浜松城跡 発掘調査現地説明会

141002_626910/5(日)必見です。10時と13時半に説明があります。

# 東海しろあとセミナーで、先行見学ができましたので、少し書き足しておきます。

1) 本丸南土塁の石垣
新聞報道でも大きく取り上げられているとおり、コンクリ塀の裏に、石垣が良好な状態で残っていることを確認。黒金門からつながる石垣。大振りな自然石が使われていることに注目したい。

2) 西端城曲輪の空掘
西端城曲輪は清水曲輪の北西方向にある、天守曲輪から一段下がった曲輪のこと。絵図では天守曲輪と西端城曲輪の間に空掘が描かれているが、今回の調査で絵図と同じ堀を確認。その規模の大きさが驚きで、堀の深さは3m以上(危なくて、それ以上掘るのをやめた)、幅も目算10m以上[写真]。天守曲輪の直下に空掘を築く必要性は、少々不思議であるが、土づくりだった浜松城の面影がここにあるのかもしれない

[写真] 天守曲輪(写真手前)から2)の空掘のトレンチを見下ろす。公園園路の縁石は無視して、柵の根本から配管までが空掘の幅になります。

■浜松市チラシ
http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/bunkazai/documents/h26hamamatsujogensetsutirasi.pdf
発掘調査でチラシを作るなんて珍しい?

■中日新聞(10/2)
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20141002/CK2014100202000109.html
■静岡新聞(10/2)
http://www.at-s.com/news/detail/1174128661.html
##追加##
■産経新聞(10/3)
http://www.sankei.com/region/news/141003/rgn1410030038-n1.html
■毎日新聞(10/3)
http://mainichi.jp/feature/news/20141003ddlk22040212000c.html

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2014/09/21

二俣城 現地説明会

140922_593413:30 鳥羽山城 駐車場スタート、15:00 二俣城 西曲輪で終了。ストーリー性のある現説会でした。

※西曲輪は、現在「ま○し注意」の看板がある遊具広場のことです。
※説明箇所には危険箇所や私有地が含まれるため、当日以外は立ち入らないようにとのお願いがありました。

【調査結果】
■これまで調査をしていない二俣城の西側地区を調査した。
1) 西曲輪の南側斜面に石垣(総延長13m以上、高さ6m)を確認。石垣の上部に裏込めが遺存していることを確認。また、西曲輪を細かな石を含んだ土で整地していることが判明。
2) 石垣の下部に石材が2つ埋没していることを確認。1.2m幅で整地されていることを確認。
3) 西側の曲輪群を中心に倒木などを整理し、周辺の遺構(曲輪、土塁、竪堀)が確認できるようになった。

【感想】
■1)の石垣。新聞報道の写真でその規模に驚かされたが、実際に目の当たりにすると整然と並ぶ石材からの迫力がスゴイ。二俣城の正面(東側)に匹敵する石垣が城の裏手になぜ、と疑問がわくが、古い地籍図には旧二俣川北岸の川口集落(川湊と考えられる)からこの石垣付近を通過して、城内へ入る道が記されていたとのこと。つまり、鳥羽山城の腰巻石垣のように河川からの景観を意識するだけでなく、実際の登城ルートを意識したものだったと理解した。

# なお、この石垣は旧二俣川方面を向いています。彼岸花とともに。
# 探し求めていた石垣はこのことだったのかな。

■サプライズだったのが、3)の成果。川口集落から大手門への道を想定して、
西曲輪の南面斜面→竪堀を登る&小曲輪の土塁を確認→公園道→二の丸南側の堀底道→大手門
とたどる。夏過ぎにも拘わらず、土づくりの防御ラインを体感する。通常、二俣城の通路として北東方向が意識されるが、この裏側となる今回のルートは、二俣城の違った一面を感じることができた。

■家族のみんな(こぞう含む)へ
上記以外にも、今日の説明会で
・前座として、鳥羽山城の本丸東側の通路、本丸北側の遊歩道を通過
・二俣城 二の丸・本丸について過去の調査成果を含め解説(2010年2011年2012年2013年
・さらに、二俣城 南側の蔵屋敷・南曲輪まで足を延ばす
とは思っていませんでした。

これだけ充実した現地説明会はなかなかないから、許してね。

【写真】 このあと、こぞうは資料をくしゃくしゃにしてしまう。不思議と蚊に刺されませんでした。(一番人気はふぅちゃんでした)

【新聞より】
中日新聞(9/19)
http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20140919/CK2014091902000068.html
静岡新聞(9/19)
http://www.at-s.com/news/detail/1174124365.html

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2014/08/17

引馬城 現地説明会

140818_5144こぞう の”初城”(初めてのお城)。しかも発掘調査の現地説明会(笑

■説明内容
1.引馬城の立地
天守がある浜松城の北東に、「田の字」に並ぶ4つの郭が引馬城。この郭のうち、東照宮が建つ郭が最高地となり重要部分だったと想定される。4つの郭の区画は現在も道路として残る。また、引馬城の南側の道路には、鍵の手構造が残っている。ひくま宿および浜松城天守の位置関係から、当初の大手道もしくは中世の東海道だった可能性が推測される。

2.発掘調査の成果
東照宮が建つ郭の3ヶ所[(1)東照宮の西側、(2)北東の土塁、(3)東照宮の南側]を調査した。
(1)東照宮の西側
小さく割れた「かわらけ」が数多く出土。
(2)北東の土塁
版築構造から、城に関係すると推定できる土塁を確認。
(3)東照宮の南側
上層に戦前の東照宮にと推定される瓦、下層に江戸期以前の遺物を含む遺構が良好に存在していることを確認。

■感想
引馬城のみをクローズアップするのは初めての機会では? 周辺は学生時代の通学路だったけど、あらためて説明を聞くと読み取れることが多いと感心した。
一方、発掘調査から、引馬城につながる遺構が確認できたことは正直おどろきでした。今後、調査を実施するかはわかりませんが。

■おまけ
家族総出で参加した説明会。一番しっかり聞いていたのは、しんちゃんでした。また、説明会終了後に居残っていたら、親子でテレビ取材を受けることに。しどろもどろで、残念ながら不採用でしたけど(^^)

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2013/09/29

鳥羽山城 現地説明会

130930_2295何度も来ているが、知らないことがまだイッパイあるのね。

特に本丸土塁の外側。これまでブッシュに覆われた土塁だと思っていたが、ぐるっと巻き付いた「白い石垣」に思わず ゾクッ...視覚的に計算された施設なのね。(← 草が生えてしまう前にオススメ)

■説明内容
1.大手道(鳥羽山城 南東側)
本丸に至る大手道の中央3ヶ所発掘し、石垣と溝を検出。石垣から発掘部分の大手道の道幅が8mであることを確認。2009年の調査で城外側の大手道の道幅が6mであるため、城内側に向かって道幅が広くなっている(道がハの字に広がっている)。

また、大手道に平場の段差を確認できたものの、大手道の形状(スロープ or 階段)を特定するにはいたらなかった。

2.大手門周辺の石垣
大手入口および搦手門の隅石は、算木が発達する前のもの。また、大手入口 南側東面の石垣は、石材の大きい面を意匠面(外側)とすることで、視覚的効果を狙っていると説明。

# 石垣の傾斜がかなり緩いのも、鳥羽山城の特徴的と個人的に感じました

3.通用門 (本丸内 東側)
草刈りによって、北東の城外側の石垣が直角に折れていることを確認。また、地中に石組みされた暗渠(あんきょ)を確認。また、門通路の平らな石は、門の礎石であった可能性もあるとのこと。

4.本丸庭園遺構(本丸内 西側)
庭園の石組みと背後の石垣について説明。石組みの背後で、石垣の積み方が異なる(北側が丸石のみに対し、南側は丸石に四角石が混じる)のは、石垣を積んだ時代が異なる可能性があるとのこと。

5.搦手門~本丸西面(本丸外 北側~西側)
草刈りによって、本丸を一周する土塁のうち、搦手門北側の石垣から西側へ 鉢巻石垣(高さ約1m)がめぐっていることを確認。石垣は石灰岩(天竜川流域で採取か?)を多用し、白っぽく見える。天竜川から見上げたときの視覚的効果を狙った可能性があるとのこと。

# 搦手門の石垣の外側を覆っていた土砂は、本丸の土塁が崩れたもの、もしくは公園化の過程で盛られたものと説明ありました。

6.本丸南西部(本丸外 南西側)
草刈りによって、公園散策路から腰巻石垣(高さ 石材数個)と鉢巻石垣をセットで見ることができる。今回の調査で鉢巻石垣・腰巻石垣の総延長は約170mであることを確認。鉢巻石垣の南西終点付近には、石垣の張出しを確認。

■メモ
説明会は10時にスタート予定だったが、参加者多数のため9:40から開始(50人くらいか)。受付所には鳥羽山城、二俣城、笹岡城の発掘遺物の展示あり。

家族全員が家にいたけど、誰もついてこなかった..

【写真】搦手門西側の石垣。中央の隅石から右側へ駆け上がる石垣が鉢巻石垣。これが本丸西側の土塁外側をぐるりと回っている。

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2013/02/02

諏訪原城 現地説明会

130202_8299説明会開催への執念を感じました(*1,2,3)

2012年度の発掘調査は大手南外堀。というより、諏訪原城の駐車場から城内に入るときに最初に確認できる東西方向の空堀といえばわかりやすいと思います。この「大手南外堀」と「二の曲輪大手馬出の三日月堀(現地標識 12号堀)」の接する部分を調査しました。

■2012年度 調査結果
1) 堀の形は薬研堀[堀深さ2.6m(現在の地表面から)、堀底幅=約1.1m、堀幅=約5m、堀角度=約60度]
2) 大手曲輪側(南外堀の北側)に土塁の基底部らしきものを確認
3) 大手南外堀と二の曲輪大手馬出はつながらず、間は通路となっている。
4) かわらけ、古銭、山茶碗が出土

このなかで驚いたは 1)。確かに発掘された堀はきれいなV字だが、これまで見ていた堀の様子からは箱堀を想像していたので。でも、昨年(2011年度)の発掘調査で、大手北外堀(現地標識 11号堀)は箱堀だった(*4)ということで、この違いはなんなんだろうと疑問のまま。

そもそも、この大手曲輪。「二の丸大手馬出」の西側(城外方向)に拡張した方の形曲輪であり、その目的そのものが理解できない。大手の防御を高めるといえばそうだろうが、丸馬出の外に大型の方曲輪を突如付け足した縄張は、正直カッコよくない(^^;

なお、今回発掘した大手南外堀は徳川氏によって作られただろうとの説明でした。

(*1) 8:30 時点では浜松も雨が降っていたので、行くのを諦めて部屋の掃除を開始。しばらくして雨がやんだので、電話してみると「まだ雨降っているけど、やります」との力強い回答。「2年連続の中止」は避けたい熱意..か? 手にしていたホウキを放り投げて、現地へ向かったのでした。(*5)

(*2) 諏訪原城に到着すると霧で真っ白。三日月堀の対岸が見えないほど。こんなにすごい霧はビックリ。

(*3) 雨上がりで足場悪いので、現地説明会は20分で終了。でも、その後の個別質問が30分以上つづく白熱ぶり。

(*4) 昨年(2011年度)調査結果より
a) 大手北外堀[堀深さ1.7m(現在の地表面から)、堀底幅=約1.6m、堀幅=約7m、堀角度=約45度]
b) 大手曲輪側(北外堀の南側)に土塁の底部を確認
c) 二の曲輪中馬出の南側出入り口に竪穴状建物跡を確認

(*5) 本当はしんちゃんも行く予定だったけど、雨で断念でした。ところで、父さんが「諏訪原城を知ってる?」って聞いたとき、「そこって『カエルがいたお城』なの?」って答えたけど、どこのお城か父さんわかりません(^^;)

[写真] 大手南外堀を東から撮影。土塁の奥に見える茶畑が大手曲輪。

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2012/11/11

二俣城 現地説明会

121111_5941笑劇ゆえ速報で。今年度の発掘調査は3ヶ所。

[1] 天守台西面
写真は、天守台 北西隅石の部分。天守台の基礎構造(*1)を確認するために掘ってみると、なんと石垣の下からコンクリの基礎が出現(しかもそのすぐ横に塩ビ配管まで..)。ということで、少なくとも天守台の北西部の石垣は後世の積み直しが確定デス。

# せっかく、本年度の調査活動で、天守台の詳細CGまで作製したというのに...
(*1) 天守台西面の石垣は(踏み固められた)赤土の上に石材を積み上げられたことが判明

[2] 本丸土塁
本丸・二の丸間の土塁(二の丸側)から、野面積の石垣を確認。調査区域以外の土塁にも石垣が続くことが容易に想像でき、大手門⇒二の丸⇒中仕切門⇒本丸 の登城経路における、視覚的効果を狙ったものだと思われる。

[3]二の丸南側堀切
地表面から1.6mで平ら底面を確認。通路として活用したものと推定される(2010年の発掘調査と同じ結果)。また、2010年調査で見つかった土器が文禄年間(1592~1596)のものだったことから、武田氏が築いた堀切を堀尾氏が改修したとしています。

# 本当は「トイレを通過するたびにドキッとさせる”音声ガイド”が、今日は動いていなかった」ことをトップニュースにしたかったけど..思わぬ展開でした。

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