2016/11/12

たいへんでした@幸田町・島原市 歴史と文化の友好交流シンポジウム 深溝城から島原城へ

161113_01429km歩くはめに

ひさびさのお城x講演会なのに、先行する貨物列車が三河塩津駅で人身事故。
このため、蒲郡駅で運転見合わせとなり、さてどうしよう。
一人じゃタクるのももったいないし..、1時間40分歩きました、これもシンポのため。

# おかげで、愛知工科大学の前で東西三河の境界を体感したことが収穫。
蒲郡市(豊橋ナンバー)→幸田町(岡崎ナンバー)
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で、お目当てのシンポのメモ。
・150名? 朝は大入り。
・深溝は「ふこうず」と読む
・深溝松平氏の4代は、「家忠日記」の松平家忠。”土木大名”
吉田城シンポジウムから進歩していた@吉田城(*)
・CGどおり整備できるか@刈谷城
・パワポなしで1.5h>中井せんせ
・天守閣がなければ@福知山城
・先魁門(さきがけもん)の改修 →ますます行きたくなった@島原城
・ちょっと会場さみしいな@パネルディスカッション

・幸田町の「島原藩主深溝松平家墓所」が2014年に国指定史跡になったこともあり、お城x墓が話題になった。浜松人として、ピンと感じたのが「信康まつり」。まず地元民が史跡への関心をもつことが、史跡活用の第一歩と感じた。

(*)吉田城の豊川沿い石垣は、名古屋城の石垣と同じ石材(幡豆(はづ)石)。
5代松平忠利が築く。
cf 鉄櫓の高石垣は、豊橋市北部のチャート・石灰岩。池田輝政が築く。

# 写真は大行列の蒲郡駅

■幸田町・島原市 歴史と文化の友好交流シンポジウム
深溝城から島原城へ -深溝松平家と幕藩体制下の城-
http://www.town.kota.lg.jp/index.cfm/12,37848,212,html
■人身事故(11/12 中日新聞)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2016111290125245.html

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2015/09/19

講演会「家康・信玄と三方ヶ原の戦い」

「(今日の講演では)研究における論争とは何かに踏み込んで話したい」-冒頭の説明が今回の講演のすべてでした。

講演の項目は3点。
1) 永禄十一(1568)信玄の駿河侵攻&家康の遠江侵攻
2) 元亀三(1573)信玄の遠江侵攻経路
3) 2) の信玄の目的(上洛戦、局地戦)

※ 1)は2)、3)の遠因としての前振りレベル

このうち、2) 経路として、2010年に駿河→遠江説の提唱後、2012に従来説(信濃→北遠)を支持する反論があり、その対応を史料を交えて説明。

こっきぃのような一般ピープルには、伝承を含む、自分の好きな(=都合のよい)説を主張すればよい。しかし、専門家は大違い。「重箱の隅」「(言葉悪く言えば)言いがかり」のような主張に対しても、丁寧に対応しなくてはいけない。日頃から感じているが、ホント大変だなと感じます。

最近、精力的な活動の本多せんせ、来月は二俣ですって。

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2015/07/04

平山優先生トークショー&サイン会

150918_0388「天正壬午の乱 増補改訂版」の刊行を記念した講演会。徳川、北条、上杉、真田、小笠原..大小勢力が5ヶ月という短期に混沌と入り乱れる「本能寺の変後の甲斐・信濃争奪戦」は、戦国臭さ(くささ)が凝縮していて面白いと思う。

ホント、話が上手で、聴講者を飽きさせない話ぶり。ややもすると理解しにくい内容を、時間経過とともにわかりやすく説明。立場が違うと状況の見え方も違うんだな。

# DMに載せられて、よかったな。

[写真]書店の一番奥の一室で開催

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2014/11/29

講演会「浜松城の景観を考える」~天守閣から見える戦後の日本~

「お城は何のために建てるのか?」

現在、浜松市が進める史跡公園整備からの視点での講演会&討論会。文化財課から中世期(今川・家康)の浜松城イメージ図(*)がでたけど、今回はお城を「これからどうしましょ」が主題なので、細かいことは誰もいわない(笑)。

(*) アバウトな想像図には思い切りが必要であり、こっきぃはけっこう好きです。

主題についてだが、今の整備の目的は何だろうか。「お城への関心をきっかけとして、地元の歴史や文化に興味をもつ」とするならば、建物や公園整備が正しいのだろうか。ひょっとすると、動物園や水泳場、体育館があったほうが、市民はお城を訪れたのではないだろうか。

普段なら「浜松城はどの時代をイメージして復元していくのか」「幕末の天守門と家康期の空掘は共存させるの?」と狭い範囲に関心を抱くところだが、これからは「どれだけお城へ訪れるきっかけを作れるか」が大切ではないかと思いました。

# 一番面白かったのは、講演日が、中日新聞の短期連載「天守再建◆よみがえるか駿府城」の最終回と重なったことかな(大笑)

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2014/10/18

特別記念講演会「水軍大名加藤嘉明-瀬戸内海時代の実像-」

知らないことは聞くのがイチバン。しかも、藤田先生が講演ということで、安城市歴史博物館へ行きました。

# 開演前に展示をみて、知識を付け焼刃しましたが(笑

講演は満席御礼(100人くらい?)。都合で60分に短縮されるが、ボリュームはそのままということで、軽快トークに濃厚さがプラスされます(笑)。内容は、加藤嘉明の話というより、城の話のオンパレード。特に松山城ネタは最後の20分間ずっとでした。城好きこっきぃには予定外の話ばかりで嬉しかった半面、もう少し嘉明自身の話も聞きたかった気もしますけど。

■メモ
・伊予一国はで、中国・九州を監視できる重要地。
・秀次事件で得したのは、加藤嘉明と藤堂高虎。
・慶長の役をきっかけに、嘉明と高虎は犬猿の仲へ。
・関ヶ原の戦いで、嘉明と高虎で伊予半国づつに。
しかし、お互いが建設中の城のそばに、監視の城を築くあり様。(*1)
-松山城(嘉明)に対して、高虎の塩泉城(湯築城)
-今治城(高虎)に対して、嘉明の拝志城
・寛永4年(1627)、嘉明の伊予20万石⇒会津40万石への転封は、高虎が秀忠に推挙したから。これをきっかけに仲直り。(*2)
・嘉明時代の松山城は、今と異なっていた
-天守はなかった?、大手口は東側だった?(*3)、町屋も違った?

(*1) 嘉明は、隣国国境にも城を築く。大除城(*4)、川之江城、壬生川城
(*2) 講演では美談として取り上げたが、どうも素直にうけとれない(^^;
-「会津は遠い、寒い」「松山城の完成直前」「水軍大名が内陸部へ(来島氏ほどの意味はないかもしれないが)」
(*3) 高虎の塩泉城が仮想の敵
(*4) 登り石垣あり。支城レベルに配置した珍しい。

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2014/09/27

東海しろあとセミナー

終日穏やかな雰囲気で心地よかった。
浜松市文化財課が主催した講演会&現地説明会。参加者は約100人でしょうか。

午前中は講演会。最初に浜松市からの浜松城引馬城二俣城鳥羽山城の事例を紹介。最近の発掘調査事例をもとに堀尾氏関連の城郭として整理するにはちょうど良いイントロで終了。..と思いきや

「(防御ではなく)見せる城の転換期について、この後、話があると思いますが..」

と強引な振りがよかった。このあと、小牧山城、岐阜城の報告につながりました。

小牧山城、岐阜城は、8月の新・清洲会議でも調査報告があったから、話がかぶるかもと心配しました。しかし、小牧山城は主郭部分、岐阜城は信長居館に限定した内容であり、興味深く聞きました。発掘調査の詳細だけでなく、発掘調査成果の視点から、日本の城郭変遷や、現代の都市、観光との関連にまで話を広げるなど、カタイ話を上手くやわらかく説明する内容はオミゴトでした。

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午後は浜松城・引馬城に場所を移しての現地説明会。最近の発掘成果について、実際にその現場で説明を聞きます。その道中、たとえば「本丸は本来もっと広かった」等、細かな部分まで担当者から説明を聞けるのはゼイタクな時間。ひさびさに浜松城をゆっくり歩きましたが、城内の木々が整理されたおかげで、高さ方向へ重なる石垣の重厚感を麓からも感じられるようになりました。

# ときおりブルーインパルスの爆音で説明が中断してしまう。航空祭前日の浜松ならではですが(笑)
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帰路、クリエート浜松で「鉄道展」の張り紙を見つけ、建物へ吸い込まれる。ところが、大正7年と昭和10年代の浜松市の地図が展示されており、浜松城付近の地形および変化を読み取ることができた。これはミッケモンの収穫だった。

## 10/2追記 ##
午後の現地説明会で見た浜松城の発掘成果が発表されました。詳細は、こちら

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2014/08/23

シンポジウム「新・清洲会議」

140823_5486配布資料にひさびさビックリ。
A4 322ページ フルカラー。重みずっしり。もちろん無料。
吉田城シンポジウム級の大盤振る舞いでした。

シンポは、城下町の発掘報告というより、発掘した結果から考察(あるいは復元)しようというのが趣旨でした。報告時間が限られているので、土地勘や発掘成果を知っていないと、せっかくの報告も消化不良しちゃうって感じでした。

# 明日もでかけようと思います。さて寝よう。

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2013/12/15

■浜松戦国塾

■浜松戦国塾

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2013/11/16

講演会「The 戦国~戦国時代の豊橋~」

131117_the3041同じ一族でも、時代によって勢力の強弱が変化することを考慮すれば、歴史はわかりやすくなる と知った。

最初の講演のみ聴講。内容は、戦国期の今橋城(吉田城)を巡る攻防について、当時の史料から解明するというもの。具体的には「牧野古白による築城(1505年)」から「武田vs家康(1582年)」までであり、ちょうど吉田城シンポジウム(2005年)で聞きたかった、池田氏以前の動向を埋めるものだった。

戦国期の吉田に登場する人物は
・在地の牧野氏、戸田氏。
・地域外の勢力(今川氏、徳川氏、武田氏)
とかなり多い。しかも、それぞれの関係も友好/敵対が時代とともに変化するため、地元外のこっきぃには正直よくわからんの印象。ただ、丁寧に史料を見ていけば、吉田城の遷移はつぎのようになる(*1)

1) 在地の牧野氏vs戸田氏(ただし、今川氏の影響下での争い)
2) 西進した今川氏の拠点化
3) 東進した徳川氏の拠点化
4) ただし、徳川氏は武田氏により脅かされる時期あり(*2)

先生の、歯切れ良い、やさしい口調での説明のおかげか、文献ベースにもかかわらず、撃沈せず聴講できた。代りに帰路の電車はグッスリ..でしたけど(笑

■メモ
(*1) 吉田城の城主遷移。
牧野(1505-1506)→戸田(1506-1517)→牧野・戸田→今川(1546-65)→徳川(1565-1590)

(*2) 1575(天正三) 武田勝頼による吉田城攻め
武田軍は遠江平山(現 三ケ日)から東進して三河へ進軍。4/29 二連木の戦いで武田軍は家康軍に勝利するが、家康は吉田城へ籠ってしまう。このため、武田軍は吉田攻めを中止し、長篠城を攻めた。しかし、5/21 設楽原の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に敗れる。

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2012/11/10

講演会「浜松戦国山城まつり 二俣城・鳥羽山城を極める」

121112_5751久しぶりに安土城へ行きたくなりました(*1)

講演の主題から少しハズれた感のある「安土城」ネタでしたが、これがよかった。安土城に関しては、
・安土城を近世城郭と同様な評価をすることはできない
(戦う城から見せる城への変化点だが、周辺国との緊張状態から軍事・政治面を考えておかなくてはいけない)
・安土城は2つのゾーンでできている
1) 登城ルート(百々橋⇒摠見寺⇒黒金門⇒天主)
2) 行幸ルート(三門⇒(天守を北に仰ぐ)直線の登城路⇒南門⇒天主)
・天主内部の装飾も「(日本的な)政務空間 1~4階」「(中国を意識した)聖域的空間 5~6階」にわかれている
・安土行幸は、信長が天下統一の戦いを進める理由として必要であり、上記の「行幸ルート」「聖域的空間」はその装置。

さらに、
・天下統一は信長に絞って考えるべき(群雄割拠した諸勢力が、みな天下を目指したわけではない)
・当時の出来事は、京(将軍)の立場で見ないといけない
(例 当時であれば、将軍の信長包囲網が正であり、信長は謀反人の扱い)
・信長の天下統一戦は、領地・領民の「私」から「国」のものにする戦い
(いままでの総否定。だから後に世界に例のない集権国家ができた)
と、歴史像の捉え方まで話が波及する内容だった。

一方、メインの二俣城・鳥羽山城ネタ。過去に何度も取り上げている題材であるが、今年度、二俣城全体と天守台のCGを作製し、写真・動画を初披露でした。周辺地形を再現、あるいは石材の詳細な描写と、よくできていると思うが、二俣城全体=徳川時代、天守台=堀尾時代 と異なる時期としたところは疑問。堀尾くんで貫いてほしかった。

(*1) 安土城を最後に訪れたのは2002年。鎌刃城の現地説明会のあと、ついで(まだ無料だった)に訪れると、”夜景ラブラブ”に見とれてしまい、足をくじいてしまう。翌日、出張先で足を引きずっていた(@田中さんのノーベル賞で沸く京都)ことがナツカシイ。

(*2) ほどよく聴講者が集まり、会場はゆったり座れました。ちょっと、寒かったけど。

[写真] オープニングの和太鼓演奏。勇壮で華やかでした。

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